昭和46年09月27日 朝の御理解
御理解 第65節
「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」
今朝から御神前で頂きますことがね、女の方が綺麗に髪をすき流し、解き流して、しかもそれを綺麗な日本髪に結い上げて、いわゆる娘さんの髪ですね。あの何か赤い何と言うですか。あの赤いかのこの何とか。こう頭に飾りを付けますね。そういうところ、いわゆる髪を綺麗に洗い上げて結い上げておるという、しかもそれにいわゆるアクセサリーであるところの飾りまで付け終わったところを、御神前に頂いておりました。
どう言う事であろうかと思うておったんです。思うて分らなかったけれども、この65節を頂かしてもろうて「ははあ」とちょっとこう思ったんですけれどね。例えばこの65節なんかの御理解が、ほんとに身に付いてしまうと言う事。これがほんとに自分の身にスッキリなってしまうと言う事はね、これは本気で金光教の信心をね、お道の信心を本気で頂こうと姿勢を作らなければ、できるこっちゃないですね。ただ改まりだ磨くことだと。例えばなら洗いあげだけではいけん。
それをねこう結い上げて行こうとする姿勢というかね。ほんとに金光様のご信心を頂こう。金光様のご信心の一番有り難いとこはどこか。一番尊いとこはどこか。ほんとに金光様のご信心ぶりによって、一家が救われよう自分も助かろうと。というようなね、ただ部分的おかげを頂くと言う事だけのねおかげに止まらずに、もうスッキリとしたお道の信者、お道の信奉者としての信心を頂く為には、ここのところがスッキリしなければいけないと言う事だと思いましたね。
金光様の何十年信心しとってもやはり、その日柄方位が心の中に引っかかるようなことでは、まだ金光様のご信心をスッキリ頂いておると言えない。それは、もう始めから「金光様のご信心をほんとに頂こう。金光様の信心によって、私も助かろう一家中も助かろう」というね、姿勢をまず作らなければ、矢張りできません。それはそれ、これはこれといったようなことになってくるんです。
日柄方位なんかもう、いわゆるそれはそれです。そして金光様の信心をしておる、お願いを金光様にする。これは、それはそれこれはこれで一生終わってしまうです、結局、スキッとした、金光様の信心の一番尊いところ、一番有り難いところ。それはもう限りがないのですけれども、そこに触れながら信心の稽古をさして頂くと言う事ができません。ここがスッキリできませんと。
金光様のご信心を頂いてね、天地の言わば御働き天地のいわゆる道理、天地の御恩徳と。もう分かれば分かる程、こう言う事は全然もう問題ではなくなってくる訳ですね。天地の親神様のこの様な素晴らしい大愛の中に、生かされて生きておる事実をね、分からして頂いた人間が日が良いの悪いの、方角が良いの悪いのなどともうそれこそ、言えるだんではないのですけれど、長年の習慣とでも言うかいわゆるスッキリしないままに、金光様のご信心を頂きながら、一生を終わっていくと言う様な人も沢山あろう。
それでは、金光様のご信心をスキッと頂いておると言う事は言えないのです。それで本気で、いわゆる金光様のご信心ぶりによって助かろうという。だから金光様が仰ることなら、どう言う事でも本気で実行してみよう。こういう姿勢が要ると言う事です。沢山沢山と言えばいろいろありますよね。教祖様の仰ることは「大丈夫じゃろうか」と思うようなことがあります。今までのやはり生き方というものから、金光大神の仰ることが、あまりに突飛に見えることがあります。聞こえることがある。
けれどもそこんところを、私は頂いていくと言う事。御神訓に「疑いを去って信心をしてみよ みかげはわが心にあり」と申し上げられますね。「神は声もなし形も見えず 疑えば限りなし おそるべし疑いを去れよ」と。疑いを去ると言う事。疑いがあると言う事。まあそんなに違いが出てくる。疑わずにそれを信じて行ずる。そこに霊験はわが心にあるのであり、疑うと言う事は、それは恐るべしに繋がることである。
そこで私どもの場合は、そう言う様な場合に直面した時ですね、例えて色々とまあ簡単なことなら、「まあ、親先生ああ仰って頂いたから」と言うて、右と言や右、左と言や左をとられるわけですけれども少し、例えばそれが難儀な問題になってくる。そうするともういっぺんお伺いをしてみようと言う様な気になるでしょうが。先日も久留米の古賀さん、毎朝日参しておられる。ある難儀な問題で、右にしたがよかろうか、左にしたがよかろうかと、なるほど古賀さんが仰るほうがよかろうごとあるですね。
人情から言うと。「こう言う風にしようと思いますが」とこう言われる。けれども「そうではない方が良い」と神様は仰る。それでやっぱ、はあ先生はそこに、言わば椛目に行くと言う事ですけれども、椛目に行った方が、ほんとにスムーズによかろうごとあるけれども、それならお伺いせにゃよかっじゃん始めから。まあお伺いするもんじゃから、神様は自分の思とらんほうが良いこう仰る。それでやっぱ二、三日してから「先生、ああして御神意を頂いてましたばってん、ほんなこて良かっちゃろうか」と。
言う事を確かめる訳です。そう言う事が沢山あるんです、お互いの上に。言わばもうお伺いもせずに、「先生はああ仰ったけれども、やっぱり自分の思とった方をしよう」という人も、また沢山あるです。これは疑うとるからね。けれどもそら、誰だってそれこそいかに「私を信じなさい、信じなさい」と言うたところでですよね、そう簡単に信じられるものじゃないです。けれどもさ、その問題は問題だけれども、「ははあこれによって信心の稽古をさせて頂くんだ」と思うたら、もうその事がね。
利害にもう繋がらない。その事をもって、信心の稽古をさして頂く、言うならば「神様を信ずる稽古」をさして頂くと言う事になってくるのです。だからそこには、自分の都合の良いこと悪いことというそのおかげと言う事と、一応切り離さないかん。いわゆるさっきから申しますスッキリした信心を「ひとつ金光教によって助かろう」と思い、「金光教の信心をもっともっと深く理解しよう、分からしてもらおう」という、その姿勢を作っとかんと、ただ髪を洗ったり、解き流しただけで終わるんです。
これを綺麗に結い上げられなきゃいけん。しかもそれには、飾りまでが付く様なね、いわゆる髪の飾りというものまででけて始めて、まあ髪を結い上げたと言う事が言えるのです。だからそうあろうという願いをまず持たなきゃいけんです。ただ自分の都合の良いこと悪い事だけをです、お願いしてそして都合の良い事だけは、神様任せになりどうも疑わしいところは、「先生はああ仰るけれども」と言うて、他の自分の思うとるをとるといったら、いつまで経ってもスッキリしたおかげになってこない。
いわゆる「ほんとに親先生の仰る通りじゃなぁ」と言う事ね。いかに「付いて来なされこの提灯に。決して苦労はさせはせん」と神様は仰っても。足元をこうやって明るくして下さっても、その提灯に付いて行かなかったら、もう神様から離れなければならん。その付いて行くと言う事が素晴らしいのです。決して親先生が言われた通り、御神意を頂いた通りにすることが、ほんとに自分の思うことの反対になる場合もあるのです。そういう時にですね、私は神様をいよいよ信じる稽古をしておかんとです。
それをおかげとは頂けんのです。先日から、土居の久富勇さんが、何か庭の何か御用をしておられる方達のまあ、慰安旅行があった。もちろん泊りがけですけれども、いわゆるお金はいらないわけですね、向こうから何もかにもして下さるわけ。だからやらせて頂くという願いがあっとりました。それはまあ「行っておいでなさい」とお取次ぎさせて頂いた。ところがその留守中でですね。
久富さんあの、お野菜を出しておられたそのお野菜のお金を、ご主人の代わりに集金に行かれて、そして帰り、あれこれと買い物をされて、それからいよいよ帰ろうと思うたところが自分のハンドバックがない。もうそれこそ自分方の、「もう私、今の久富の家の全財産が入っとる」ちゅうね。まあそういう時に、まあいろいろ奥さんは奥さんで感じることがあるだろう、帰ってご主人がそれを聞かれて、ご主人としても分かるところもあろう、もあるわけね。
そういう中に例えば今の久富さんのお家で、金銭のことでしたら、もそれこそ千円の金でも大変な金である。けれどもそのそれに関連していろいろその、感じておられることは、結局お礼を申し上げる事になっておったわけです、奥さんの場合。まあ勇さんの場合、それがどういうふうに受け止められたか分かりません。娘さんが二人おられますが、姉さんの方は「もうお母さんが、あんたぼやっとしとるけんで」ち言うた。ところが妹の方は、まあ熱心にまあ小さいながらもほんとに熱心に信心いたします。
「もうお母さん、それは絶対神様のご都合よ」ちから言うた。もう何回も何回もその、お母さんにそう言う。「もうこれは絶対ご都合よ」だから、どういうご都合かと言う事をです、いろいろまあ感じ取ろうとするわけですね。成程ご主人は旅行に行かれた。成程まあ愉快におもしろい、実に幾日かを過ごされた。お金も使わんで済んだ。けれどもこれは、私、久富さんから聞かんけれども、今の勇さんというのは、お金が要らんからというて、まあだ楽をするだんじゃ実際はないような感じがするんですね。
これが私の修行時代だったらどうだろうかと思うですね。私は、自分の信心をすぐ思うてみる。そらもう、今回のような修行をなさっておられるね。けれどもそれは、私自身も通っておるところであるけれども、私の場合だったら、お金がいるかいらないからじゃない。とてもとても一日だって、お広前を遠ざかると言う様な事が出来る事、時代じゃない、だいたい言うたら。結局お金を出し、旅行したぐらいな経費がちゃんといっとるです。
まあそう言う事は、勇さんの場合、まだ聞きませんけれども、ただ神様のご都合に違いはない。これは大きな神様のご都合の一つだと思うんですね。これからもあることぞと。本気で例えば旅行でもさせて頂くなら、それこそ旅行するとに小遣いの一つも持って行かんどいて、何が楽しいことがあるか、ただバスがただ泊まる所がただある、食べることだけは、向こうからしてもらうと言う事じゃない。
それこそ、お金の少しも使わせてももらや、お土産のひとつも、買うてこれるくらいなおかげの頂けてからの旅行でなからな何が楽しいことがあるね。とまあ言う様な事に、その留守中には、例えばそう言う事があっておるというね。けれどもその、それが神様のご都合であると分かるところまでは、神様を信じておられる。神様もご承知自分の家に、今お金がどのくらい大事な物かと言う事を、神様もご承知の上でのこと。だからこれはよくよく、よくせきなことであろう、めぐりのお取り払いでもあろう。
または根限りのほんとの信心修行を、今こそ仕上げておかなきゃならん時ぞ、という私は信心がね、できなければならん時じゃなかろうかと。それがもしこと神様のことであるならば、その何日間がどのようなふうに生きてくるか。ただ自分の身楽の為の何日間は、どのような結果になってくるかと言う事を分からしてもらう。昨日一昨日です、二十五日の研修会の時に、高橋さんが発表しておられた。ほんとにまあ私の一日の時間というもののほとんどが合楽で過ごしておられる。
朝お参りをする帰られる。また出てきておられる。御用があるときゃもうおられる、そのまま御用さして頂いておる。そして実感しておられることは成程「神の用を足せば、氏子の用は神が足してやる」と仰るところを、もう日々刻々実感しておるね。お商売と言やね、千代町のご自分の本店の方だけじゃない。天神町の方、久留米のダイエーの方、それから福岡のダイエーの方。しかもダイエーの方は二ヶ所、久留米のダイエーの方も二ヶ所。そして今度は、また長崎の方のダイエーの方に支店を作ろうと。
ただその準備中。ですからもう、仕事はもう山ほどあるわけ。自分がおらなければ、主人がおらなければできない仕事がある。けれどもね、神様の御用のその端でできるという実感ですね。いや自分が一生懸命になってすることよりもですね、神様が、その用を足して下さる方がどのくらい垢抜けして、スッキリとおかげを頂いていくかと言う事を、この頃は体験する、という意味の発表しておられましたですねね。
神様の御用を十分させて頂きながら、んなら、家の御用も十分、言わば神様が、誰を使い彼を使い、又は、その時間空間を問わずに神様の働きがあるね。例えて言うと、帰らして頂くと、ちょっと自分の用件だけがそこに、どうでもできにゃならん時には、用件をこう集めておられる。先日なんかは丁度、店員さんの事故までもあった。で私が居なかったら、やはり問題になるところですけれどもね。
そら良いこと悪い事につけてです、ちょうど私が帰っておる時であったから、話もスムーズにつけれる事が出来た、と言う事を言うておられた。私はねそういう体験を頂いてこそ始めてです、「なるほど、親先生が言われる通りしときゃいい」と言う事になるのじゃないかとこう思う。そういう信心をひとつふんまえてからの神様であり、信ずるじゃなからなければ、まあ、それはもうほんとに、高橋さんぐらいな、御神意に一辺倒はなかろうと思うくらいに、もう一切のことは、御神意を伺うてのこと。
ですからもうその、そこのところの体験ができておりますから、もうどんな難しいことでも、お伺いされる。「それは右がいいですよ」と、「はい」もうそれで腹が決まってしまう。これはお道の信心による、言わば生き方を身に付けて行っておられる姿であると思う。ただ困ったとこやら、自分にできそうにないとこだけをお願いをして、毎日おかげを頂いておる。なるほどそれも結構ね。けどもほんとうに金光様のご信心、言うならばです、例えば「それほんなことじゃろうか」とね。
「神の用を足せば、氏子の用は神が足してやる」と仰るが、それほんなこっちゃろうかと、誰だって一応は疑いますよ。「そげんなんしよるばってん、それが沿わにゃいかん」ということところから、それでも例えばほんとうの姿勢をつくろうと、いや金光様のご信心によってほんとに助かろうという姿勢をつくるならですね。そこのところ通らなければできんのです。実際。ほんとのことは分からんです。
神様がなるほど、この様な事柄の上にまで、この様な働きを下さるという体験が生まれてこない。生まれてこなかったらいつまで経っても、言うなら、いかに信じておるようであっても、半信半疑であります。だからおかげも半分と言う事になるんです。ですからなら神様を信ずる為に、ひとつ本気で信心の稽古をさして頂こうと言う事になる。ところがですね、今、勇さんの例をとりましたようにですね。
神様はご承知の上でね、あれだけの信心をなさっておられるのに、今の私の方にお金がどのくらい大事なことか、大事な物か神様ご承知の上に、神様は何の為に取り上げるようなことをなさらなきゃならんのか。と言う様な事もありますからね。そこんところで、ちょっと腰を折ると、「神様もいい加減なもんだ、いや神様任せだけじゃいかんぞ、自分の才覚で行かにゃいけんぞ」と言う事にまでなってくるんです。
そういうことが何十年続いたって、ならほんとうの金光教の信心の、いわゆる有り難さや尊さには触れることはできないと言う事ね。御本部参拝でもそうである。御神意伺うたらお許しを頂いた。お許しを頂いたばってん、旅費ができん。だからご無礼しよる。もう神様はお許し下さったんだから、お参りすることをお許し下さったんだから、どういう例えばそこに事情が起きてこうが、お金はなかろうが、それこそ借金してでも、どう言う事情を推しやってでも。
ひとつおかげを受けなければならん、という生き方から、「なるほど神様じゃなぁ」という体験はその先なんです。生まれてくるのは。久留米の佐田さんところがね、潰れるか潰れないかという時にです、もうとても、御本部参拝どんされる状態じゃなかったです。いろんな問題で。それを推して、親先生がおいでられるから、お供さして頂くというて、お供さして頂いとったおかげで、現在の佐田さんが残ったちゅうからね。まあ簡単に話すならそうだったんです。
あん時、久留米の方行っておられなかったらね、もう現在の家屋敷はおそらくなかでしょう。そこでそんなら、その家屋敷を取り留めたとか、それに巻き込まれんで済んだとかというようなことだけではなくてです、それによって神様は「ねぇお父さん」と、言うて、そん時のほんと話せば、「ほんにそうね」と言われるくらいなですね、神様を信じる力が生まれてきたのです。私その神様を信ずる力、そこに疑わん。もう教祖様が仰ることをそのまま有り難く頂けれる、頂けるからまたいよいよ、深遠。
お道の信心の深遠さに触れて行く事ができる。それもならいっぺん頂いたから、もうそれで良いちゅうことはない。それを繰り返し繰り返しさして頂くところに、素晴らしいと言う事になってくる。昨日の特別奉修委員の方達の御祈念の後にも聞いて頂いたことなんですけれどもね。月次祭、霊祭の時に、乾物の神饌がこうやって進んで行く時に、ちょっとそこで、あのラーメンが二つカチッと落ちた。そん時お供えをしておられる佐田さん、もうそれこそ冷っとした。
折角のお供えをしてあったのが、「どうしたことじゃろうか。何がご無礼じゃったじゃろうか」とこう思う、思ておられたね。佐田泰造さんご主人の佐田さんの方だけは、もうそれこそピシッと自分の胸に感ずる事があったけれども、まあ言わんでおったけれど。先日から、ご信者さんが、言うていろいろ信心話を一生懸命しておられる時に、実はと言うて、話をその岡崎さんが丁度晩にお話聞きにいった。岡崎さんに一生懸命お話をしておるうちに、生々しい自分の体験を「岡崎さんこげなことがあったよ。
私他のもんに話しとらんけど、こうじゃった」と言うて、話されたことがです。実はあん時に、別のラーメンのちょうど仕入れをしたばっかりであった。あれが普通ならば、この新に新しいものの中からこれを解いてお供えするだけれども、「まあよかよか」で手前んとの、その二つが落ちた時に、ほんとに真心というの欠けておったことを、嫌と言うほど感じたわけですね、佐田さん。
そしたら神様は「それだけはいらん」と言わんばっかりに落ちたとこう言うんです。そして、まあいっちょ不思議なこと有り難い事はね、それ以来ある意味では飛ぶように売れておったそのラーメンだけがですね、ピシャッと売れが止まったちゅうんです。「はあまた売れた、また売れた」と言いよるごとあるけれども、自分の才覚で売れとるとじゃない、神様のおかげで売れよるとじゃなと言う事いよいよ感じたと今日はね。
ですからね、例えばそれも「ほんなことそうじゃ」これほど、総代あの総会の時もそうであった。行くつもりでおったけれども、ちょうど月曜日になった。ところが月曜日が一番、お店の忙しい時。だから今度の月曜日は、私はもう行かれんでもう決めてあった。ところがそん時行っとけって、行き澄ましとったと、皆さん帰られた後で仰ったそうですね。例えばならさっきから、御本部参拝こと神様ごとならば、どう言う事をおいてでも、やらして頂いて、あんなふうな体験頂いておられてもです。
たった総会位な事にちょっと失敗しておられる。けれど失敗しておられる所にはもう、次に神様が失敗だったと言う事を教えておられる。こと神様という時にはそら月曜であろうが、良い事情があろうが、それはおいて行けると言う事はです、そのまま神様をいよいよ信じさせて頂けれる働きを、身に付けようという姿勢ができなければ、出来る事じゃない。一つのスキッとした思い込みができなければ出来る事じゃないね。
ですからそれはね、まあ言うなら倒れ転び、おかげを受けたり落としたり、またお気付けを頂いたりして、私はそこんところを分かって行くおかげになるんじゃないかと思う。教祖様の仰る、なるほど「氏子の用を足せば」いや、「神の用を足せば、氏子の用は神が足してやる」と仰るがですね。はっきり見えない時もある、それが。けれどもですそれを間違いなしとして受け止めて行くと言う事がです、私はスッキリとした、いわゆるお道の信心の言わば深遠さと。と言う様なところが分かって行くではないか。
それにはね、本気でただおかげを頂く頂かんと言う所だけに止まらずに、本気で金光教の信心によって助かろう。本気で金光教の信心によって安心のおかげを頂こう。本気でお道の信心の尊いところを分からして頂こうという、始めからその姿勢でなからなければ、それはできないと言う事。やはり自分の都合の良い方を取ると言う事。いかに日柄方位を見るな、普請作事にね、使い勝手のよいのが良い家相じゃと教えられてもね。そう仰るけれども、というけれどもが付く。
そのけれどもが付く間は、神様を疑っておることになるのですからね。それをいよいよ信じさせて頂く為に、ここんところいよいよ稽古さしてもらう。今日はこの65節を例えばそういうような角度から頂いたわけですね。私どもが、本気で金光教の信心によって助かろう、金光教の信心をもっともっと深く広く分かろう、という姿勢ができておらんと、ね。ただ自分の都合の良い主義だけに終わってしまいます。
おかげだけの為の金光教になってしまいます。自分の命が助かる。いわゆる根から助かって行くというようなおかげに繋がる為にもね「疑いをはなれて」とこう。いわゆるもう金輪際疑わんで済むところのおかげ。疑いを去って信心してみよ、というところ。みかげはわが心にあるのである。「疑えば声もなし形も見えず 疑えば限りなし 恐るべし疑いを去れよ」疑いを去る稽古をです、まずさしてもらわなければ、信ずる心が生まれとは思われませんですね。
どうぞ。